Self-denial Practice (ideal) 2 - 5
media/size: HD video/ 7-hour loop (2) / HD video/ 3.5-hour loop (3) / HD video/ 4-hour loop (4)/ 5-hour loop (5)
《Self-denial Practice (ideal)》は、これと対になる
《Self-denial Practice (physical)》の否定として制作さ
れた映像作品。
《Self-denial Practice (physical)》は、ジャンクな素材
のコラージュや、コンセプトを持たない無目的なペイ
ンティングで構成された「物理的な」シリーズである。
2014 年から、私は、私自身の知性の否定を意味する、
コンセプチュアルな作品から厳格に峻別された、論理
性の排除を目的としたオルタナティブなアプローチと
して、100 以上のコラージュの断片を制作してきた。
それはつまり、《Self-denial Practice (physical)》は、私
がコンセプチュアルな作品全てを貫く目的として掲げ
る「言語の解体」それ自体が言語によって定義づけら
れているというパラドックスを、言語外の感覚(非論
理的な美的判断)を通じ自身に知らしめる作業である。
それは、私自身の精神の内で実行されるべく意図され
た、これらの二項対立(「言語による定義」対「言語外
の感覚」)の弁証法である。
これは実務に即し、以下のように言い換えられる:
知性=論理性の否定は、パーソナルな趣味、非論理的
で感覚的な美的判断を生み出す。なぜなら、実在的=
物理的なジャンクのコラージュの制作は、私個人に固
有の実存に結び付くからである。
冒頭の文で述べたように、《Self-denial Practice
(ideal)》は、以上のように《Self-denial Practice
(physical)》で一度肯定された“純粋な感覚=非論理的
な美的判断” を否定するためのアプローチである。
《Self-denial Practice (ideal)》で使用される単純な図形
は、コンピュータープログラミングで生成された乱数
により決定された要素から構成される。そこには、個
人の美的判断に関わるものは何もない。(いくつかの
バージョンは、変化する図形を持たなかったりと、乱
数すら用いない。)
具体的には、乱数によって決定されたものは、四角形
の四辺の長さと色であった(例外なく厳格に、四辺の
合計の比率を100 に、CMYK の合計を300% に設定し
た)。
これらのプロセスは、もし我々が、これらのわずかな
差異しか持たず、なんら個性のない、かつ物理的な実
体もない図形のバリエーションを美しいと感じるなら
ば、どこにその根拠があるのだろうかと問うことでも
ある。それは追求するに値するものだ。
最終的な作品化に映像というメディアを選んだ理由
は、その問いを、物理的な実存に関わる要素を一つも
持たない、純粋に観念的なものとして存在させるため
である。