BLACK CORRECTION (with cultural suicides, social scatology, educational feces, expressionistic ejaculation, and you) 12 - 26


media/size: oil on canvas/ (from top to bottom) H50 x W66 cm; H80 x W60 cm; H62 x W50 cm; H62 x W50 cm; H73 x W53 cm; H65 x W65 cm; H41 x W32 cm; H41 x W32 cm; H41 x W32 cm; H80 x W60 cm; H73 x W73 cm; H33 x W46 cm; H32 x W41 cm; H27 x W41 cm ; H33 x W24 cm


このシリーズは、「前提」にある、(いくつかの例外を 除き)全ての作品のコンセプトの軸をなす、言語に関 わる問題を扱う“定義1” から外れるが、その代わりに、 図像学的・記号論的アプローチとして採用された政治 的・社会的要素をもつ。
加えて、このシリーズは“定義4” で規定されている、 自身の直接的身体性の排除も持たない。私はこれらの ペインティングを一般的な方法=利き手で握られた筆 によって描いた。
以上の点は、《Self-denial Practice (physical)》の発展形 でもある。

このシリーズは、以下の独立した定義によって構成さ れる。

定義1.
日本人のメンタリティーは未だ「プレ・モダン」である。

定義2.
「モダニズム」とは、プレ・モダン以前の反理性的な因 習を否定し、理性によって普遍的な価値を生もう とする、 進歩のプロセスである。

定義3.
「ポスト・モダン」とは、モダニズムの行きづまりを自 覚したときに、モダニズムの直線的な進歩主義の体系 を構成する要素を任意に取り出し、引用や組み換えに よって、その行きづまりを打開しようとする「モダニ ズム」のいちバージョンである。

定義4.
“定義1” から、日本人は根本的にポストモダン的なふ るまいを根本的になしえない(正しいポストモダンと、 日本式解釈のポストモダンでは、背景となる思想・理 性的な思考が決定的に異なるのではないか。日本人は イノセント過ぎる)。

定義5.
“定義1”、“定義4” から、日本人は、モダニズムを、 まず自らの理性によって経験しなければならない。

定義6.
“定義5” から、私、菊地良博はモダニストである。

定義7.
日本の文化は、表面上、米英を主だって参照した、あ るいは取り入れたポスト・モダンとしてある(ように みえる/感じる)。

定義8.
“定義1”、“定義7” から、日本人はメンタリティーと 文化の物質面または情報との間に根本的な錯誤を抱え ている。

定義9.
BLACK CORRECTION は、“定義8” の問題を引き受ける。

定義10.
“定義6” の「モダニストであれ」という、アーティストとし ての理念は、個人の生活における趣味・嗜好の作品への投影 を抑圧するシステムとしても存在する。

定義11.
BLACK CORRECTION は、” 定義10” で示されたシステ ムにより抑圧されている要素を開放する機能を持つ → 社会的な自殺/理性の首つり/近代の排泄/近代の嘔吐。

定義12.
“定義10”、” 定義11” で言うところの抑圧とその解放の 対象は、日本特有の過剰な性サービス(AV、風俗等の 過剰な充実)を潜在的に、無意識に共有し、反映したも のである。

詳述:
私は通常、他者依存的な、既存の記号的価値の組み替 えに依らない、つまりポスト・モダン以降の振るまい を拒否する、モダニズムの理性的な進歩主義に則った 個人主義に根ざした動機によって、しかしながらその 主体である自分自身の審美的判断には至極懐疑的に作 品を作っている。それは、日本には他の先進国のよう に個人の意志の総和としてある社会がなく集団主義的 な傾向が強い、つまり依然として、この国は理性や合 理性を前提とした近代の枠組みの外側にあって、それ にもかかわらず著しい経済発展がいかにも近代化に成 功したかのように我々に錯覚させていること、それに ついて自覚的であろうとするために、個人レベルで近 代をやり直しつつ相対化するという試みである。

私の場合の個人主義に根ざした動機とは、根本的な厭 世的傾向である。それゆえ、私は「人間性の否定」を 目標に掲げている。しかしながら、作品は表現主義的 なものでなく論理的でコンセプチュアルな方法で制作 されている。
私が人間性を否定するうえで、その軸とするのは「言語」 と「性」の問題で、それらから価値や機能を奪い無価 値化することが主な実践内容である。 なぜなら言語と、社会的な禁止のシステムと一体になっ た生殖行為外の性の放蕩、この二つは人間のみが持つ 概念であり、「美術」も同じく人間固有の概念であるか ら、これらは最も深いレベルで関連づけることが可能 だと考えるからである。
ところで、村上隆は海外の文化にコンプレックスを抱 いている日本文化の脆弱さを逆説的に肯定する手段と して、マイノリティの文化であったオタク文化を参照 した。それは自国の非自立的な自閉性の結果として生 み出された固有の文化であって、西洋の文脈にはない 強みであるとし、その社会的な背景―文化や社会に階 級や優劣が存在しない均質性を帯びた社会―こそが実 は肯定されるべきものなのではないか、とうそぶいた。 固有の文化の肯定とその背景の認識までは賛同するが、 それらは丸ごと肯定されるべきものではない。それに よって西洋のポストモダン以降の動きへと短絡的に接 続しようとするとき、それが近代の精神のボイコット だという錯誤が忘れ去られている。個人の総和がかた ち作った近代が飽和した時に、その状況を克服しよう として利用されたのがポストモダンであって、それは モダニズムのいちヴァージョンである。なぜなら既存 の記号の組み替えで“新しい” ものを生み出そうとする 進歩主義的な姿勢そのものが近代そのものだからであ る。つまりそれは、日本では自律した文化が成立しな いということ、少なくともその疑いが強いことを意味 する。この視点は日本のアーティスト、特にネオ・コ ンセプチュアリズムのように、コンセプチュアリズム 以降の動向に言及するアーティストにとって重要であ る。

オタク文化というのは、少なくとも私の世代までは接 点のない人々の方が圧倒的に多数だ。その代わり、我々 は西洋へのコンプレックスを血肉化させながら、あら ゆる文化の正当な系譜はアメリカやヨーロッパにある と信じて多くを吸収してきた。これは個人的には、美 術についてではなく、私が最も熱心に注意を注いでき た音楽について顕著である。このシリーズはこの問題 にも関連づいている。

私は2014 年から、《Self-denial Practice (physical)》と いうシリーズを開始した。それは上記の「人間性の否定」 を行うにあたって自身に義務づけたいくつかの方法に 則らない作品群である。そこではコンセプチュアルな 論理性が否定され、直観的な身体性が採用されている。 つまり否定の対象を大文字の人間の性質とするのでは なく、私個人の理性に変えてみるということだった。

《BLACK CORRECTION》は、上記の自身の理性の否 定を、油絵という最も伝統的で保守的なメディアを用 いて表現主義的に行うというものである。そこでは、 私自身の理性が人間性を否定しようとしたときに無意 識に採用していた禁欲的な理想主義が抑圧していた私 の内面=潜在意識や、それに関わる個人史における大 衆文化(反社会的な傾向の強い地下文化など)による 影響が引用され、それらが見かけ上肯定されている。 しかし、それは自己否定でもある。なぜなら、抑圧さ れたものを淫らに開放するということは社会的な自殺 に等しい。加えてその見かけ上の表現主義は、日本国 外の美術史に意味もなく言及するという、日本人が陥 りがちな” 誤った” アプローチを諧謔的に模してみてい る。
これは私が軸とする「人間性の否定」を行う主体であ る私自身がそのうちに含まれるのであるから、自己否 定は免れないという意識に根ざしている。

最後に。このシリーズに関連している作品がひとつあ る。それは2015 年に制作した《ひどいイベント》である。 「ひどいイベント」は、なにかしらの極端な表現をする 場として、仙台で友人達と数年間にわたって企画して いたイベント名だった。そのイベントでは、私は本名 とは別にもうひとつ、ひどくくだらないパフォーマン スをする際の名義として、「たけのこの里」や「きのこ の山」にちなんだ「まつたけの浜」という名義を持っ ていた。このシリーズで頻出するロゴは、冗談として その名義から生まれたものである。そのロゴは、自己 否定の一つの結果として、私の人格の統合性が減じら れ、なかばふたつに分裂しようとしていることの象徴 であると言える。


photos by AISHONANZUKA

> return to ‘works’

>> return to index